ドラマ テセウスの船 3話

引用元:https://www.tbs.co.jp/theseusnofune/
容疑人と犯人て意味がぜんぜん違うんですけどね。
そのくらいはわかってから人と接してよ大人なら。
自分の心の中で、疑いと事実の区別もつかずにごちゃごちゃにしたまま心を放置。
こういう部分にちゃんと目を向けているかどうか?
それが洗練されている人と田舎モンの違いだと思います。
ドラマ「テセウスの船」
第3話
を観ました。
この記事は、ドラマ「テセウスの船」第3話のあらすじや感想、見どころ、原作漫画の無料情報を紹介します。若干ネタバレもしますが作品の楽しみを奪うようなネタバレにはなっていないはずです。
またストーリーセラピーは精神的な田舎モノとそうでない人がやっていることの違いの考察です。
あなたが「テセウスの船」のドラマや漫画に興味を持ったり、心の整え方に目を向けるキッカケにでもなればうれしいです。


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ドラマ テセウスの船 3話 ネタバレあらすじ
田村心(竹内涼真)は、音臼村で立て続けに起きた一連の事件の容疑をかけられ、金丸刑事(ユースケ・サンタマリア)に逮捕されてしまいました。
逮捕される直前に未来の出来事が書かれたノートは辛うじて崖の下に投げ捨てた心。
父・佐野文吾(鈴木亮平)が殺人犯として逮捕される未来など誰にも知られるわけにはいかないのです。
特に文吾本人には。
金丸にしつこく取り調べを受けた心。
ところが今度なぜかあっさりと釈放されます。
すると文吾が封筒に入った免許証が届いたと持ってきます。
免許証もノートと一緒に捨てていたのです。
誰の仕業なのか!?
まさか、ノートも拾われてしまったのか!?
そんな中さらに追い打ちをかけるように、また奇妙な絵が学校の門に貼られます。
新たな犯行を予告か…
佐野家では追い詰められた心を心配する和子(榮倉奈々)。
事件を止めるためには文吾に真相を明かして協力を仰ぐべきだとわかっている心。
しかし、目の前の優しい文吾が、自分のせいで家族に辛い人生を送らせることになると知ったらどうなるのか?
それを考えると打ち明けられず、激しく葛藤を繰り返し…
ドラマ テセウスの船 3話 感想と見どころ
いつも翌日か次の休みの日に録画を観るのですが、タイミングが合ったこともあり、今回は放送時にリアルタイムで観ました。
わたしは日本映画でやたらと人が叫ぶのが嫌いです。
ドラマも含めて。
絶望の果てに膝をついて叫ぶ…
「ほらきた」「またやった」
と思っちゃうんですね。
安易な絶望、葛藤の表現に見えて引いちゃいます。
映画の予告編だけで邦画の叫びのシーンの多さに気づけると思います。
ドラマなどでも…例えば家族の死のシーンでやたらと泣きさけんだりする。
安易。
あだち充さんの名作漫画「タッチ」では漫画もアニメも達也の双子の弟・和也がなくなったときの両親や達也、幼馴染みの南の絶望や悲しみ方の表現はまさに名シーンでした。
最終的には南が思い切り泣くシーンも描かれるのですが、そこまでの溜めと泣かせるときの演出まで含めて完璧でした。
しかも、南の泣き声は聞こえない演出です。
家族は病院の和也の遺体のそばでみんな呆けているんですね。
表情筋が全部そぎ落とされたかの如く。
あれがリアルな表現だと思うし、だからこそ観客が心の中でその悲しみを感じる。
ハリウッド映画を観ていると、主人公がにっちもさっちもいかなくなって絶望して叫ぶシーンなんてほとんど出てきません。
それは、安易に見せるものではなく観客に感じさせるもの。
ほとんどの作品では、観客が物語によって絶望を感じている間に、主人公は前に進むための何らかのアクションを起こし始めています。
だから、安易な邦画の表現よりもずっと切羽詰まった感覚が観客の心に伝わるんですよね。
だから、洋画で叫ぶシーンを入れるときはよっぽど考えられていると思います。
いい例を挙げると、最近見返した「マッドマックス 怒りのデスロード」ではフュリオサという女性が、絶望して叫ぶシーンがありました。

あのシーンも、そこに至るまでのタメがあってこそだし、叫び声は聞かせない無音の演出でした。
それを望遠で撮っている。素晴らしいです。
話、長くなりましたが、それだけ日本の作品の叫ぶシーンに強い違和感を持っているわたし。
それでも、今回のドラマ「テセウスの船」第3話で心が叫んだときは、「…そりゃそうだよね…」と自然と受け入れられました。
サスペンスとミステリーの圧がしっかり詰まっていて、息詰まる展開の中で、お互いを大切に思ったり理解し合うシーンが視聴者にとっても救いになってるんですよね。
その使い方にまんまと乗せられています♪

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ドラマ テセウスの船 3話【考察ストセラ】知識と精神の田舎モノ
ドラマ「テセウスの船」第3話では、わたしの思う“田舎モノのいやな部分”が表現されます。
佐野家への嫌がらせ。
一連の事件の容疑者として逮捕された心さんをかくまっているということでの嫌がらせ。
文吾が心さんを追い出したと知ると、今度は手のひらを返したように仲良く接してくる。
こういう陰湿で幼稚な態度を観ると田舎モノだなぁと思ってしまいます。
誤解の無いようにキッチリ説明しておきたいのは田舎非難ではなくて田舎モノ非難だということ。
ココで言う田舎モノとは心が狭い人たちのことです。
狭い心の世界で生きている。世界観の狭さ。
そういう小ささの象徴としての、心の田舎モノ。
実際には田舎で生まれ育とうが、都会で生まれ育とうが、考え方や人への反応が稚拙で貧しい人たち。
心が生まれ育ったのは東京のようですが、心の家族を殺人犯の家族として執拗に追い回したり、住まいの壁に落書きをしたり。
手段はなんでも相手の気持ちをおもんばかることも尊重することも想像することもしない。
そのくせガツガツ、ヅケヅケと下世話な好奇心はむき出し。
こういう心の貧しさ幼稚さというのがどこから来るのか?
それを考えてみると…
やっぱり圧倒的な無知、知が無いというところに行きつきます。
知ですよ、学じゃないですからね。
無知がいけない。
「俺はアンタみたいに学がないから」と、まるでエリートを嫌う叩き上げ感を出す人がいますが、わたしも学はありません。
偏差値50前後の学校を赤点ギリギリでなんとか卒業して、一浪して英語と国語と論文の試験だけで三流大学の芸術学部に入る人をエリートなんて言わないでしょ?
別に卑下してませんよ。
とても感謝しています。
高校にも大学にも通わせてもらったし好きなことをやってきましたからね。
「高校も大学も出たやつを学がないと言わねぇよ!」
という声があることももちろんわかりますよ。
それでも「学がある」なんて立派なものとは違います。
それでも、これは誰にでもいえることですが、学が無くても知は持てるんですよ。
例えば実際の田舎に生まれ、そこから出たことがない人。
そんな人がいつも本質に思いをはせ人としての情緒豊かな在り方を習慣にして生きていれば、オベンキョーなんか出来なくても、学校のテストは0点でも、宇宙と地球と身の周りの環境に即した生き方で幸せになる知恵は身についているはずです。
そう言う人は、もちろん都会にもいるし、エリートにもフツーの人にも貧乏人にも金持ちにもいる。
そう言う人が心の田舎モンとは正反対の人たちだと思っています。
思考と精神の洗練を知っている人、実践し続けている人。
まだまだ知らないことがあることを当たり前に認識して探求している人。
無知の知を持った、幸せの知恵の持ち主。
佐野家に嫌がらせした人たちのような文化が、実際にあるあ実際の田舎もあるとおもいます。
そういう眼で見ると、結局日本中そうだし、海外にでも場所をよっぽど選定しないと結局同じ。
アメリカだってデッカイ田舎の集合体だなんて言われているでしょ?
土地柄で「田舎から出たい!」と都会に出て行って、結局都会にすし詰めになっている田舎モンの群衆の中で疲弊するのも当然のことです。
簡単に言ってしまうなら、人を指さして非難したり悪意の石を投げつけたりするよりも、自分が例えそういう感情を抱いたとしてもその感情に目を向け省みるという習慣が持てるか持てないか。
それだけで、知が広がる可能性がある人と、いつまでも狭い心の世界で生きる人の違いがクッキリとつきますよね。
全ての物語のために
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